羊のまいにちしあわせになる方法100

羊、こと羊子がまいにちしあわせになる小さな方法をためし中.100個お試し中。

彼女は安楽死を選んだ・NHKスペシャルを見て思ったこと

先日NHKスペシャルで「彼女は安楽死を選んだ」を見ました。治る見込みのない重い神経難病を患った50代の女性が、外国人の安楽死を受け入れているスイスで安楽死するまでのドキュメンタリーで、大変考えさせられる内容でした。同じ神経難病のもう1人の50代の女性は、数少ない残された体の機能、「まばたきをする」という行為で、生きる選択をされていました。

 

見終わったあと数日経つのに、ずっと頭から離れません。

 

人それぞれ考え方があるので正解などないと思いますが、自分のそれまでの生き方がそこに表れるのは確かだと思いました。

 

強く感じたのは3点です。

 

#遠い海外での安楽死は体力的、精神的に負担が大きいのでは。

今、日本で安楽死は認められていないので、仕方ないのですが、安楽死をするのに遠いスイスに行くというのは、重い病気の方にとって、大変な負担ではないでしょうか。スイスでしかできないので、体力を考えて行けるうちに、と考えるとあせりがうまれはしないだろうか? 

違う国に行き、そこで数日で、自分で最後のスイッチを入れる(薬の栓を開ける)というのは、必要以上に精神的な負担が大きくはないでしょうか。ご家族も。

 

もしずっと生きてきた日本で安楽死が認められていたら、もう少し自然な流れの死をご家族も感じられないでしょうか。(これは日本で安楽死を認めるべき、というのではないのですが、もし日本で認められていたら選択は同じでもしなくてもいい負担が減ると思いました。)

 

# 何もできなくても生きるということについて

 

自分があのような病気になり、痛みと生きなくてはならず、すべて人のお世話にならなかったら、きっと自分も「生きていてもしょうがない」と苦悩を感じると思います。でも愛する人がそうなったときの気持ちは自分がなったら、と想像するのとは違うものでした。

 

うちの母は意識不明のまま5年間生きてくれて、私たち家族は悲しく苦しかったけれど「そこにいてくれるだけでいい」と思っていました。それはそういう体験をしてはじめてわかりました。想像で議論しているときと、本当に愛する人がそうなったときとは、人間の考えは変わるものなのです。そして変わり続けます。でも自分がそうだったら、と考えるとその状態で生きるのは大変辛いとも思います。

 

# この世で終わりだろうか?

この世がすべて、死んだら終わり、唯物的な考えのみに生きていると死を迎えたときあまりにも無であまりにも虚しいものではないでしょうか。もしあの世での再会をどこかで信じられていたら、死はしばしのお別れであって、たとえ自分で死のスイッチを開くにしても、寿命で亡くなるにしても「今までありがとう、また会うときまで」になるのではないでしょうか。これは死を前にして突然考えられるものではなく、生きているうちに、いつも生と死を同じグラウンドで考えることが必要なのかもしれません。

 

そして超高齢化社会の日本でもっともっと安楽死の議論がなされ必要があると思います。私ももっと安楽死に関する本を読んで勉強しようと思いました。

 

最後に、日本での安楽死の問題提起のために、撮影を許可してくださったお二人とそのご家族に感謝の気持ちをお伝えしたいです。本当にありがとうございました。そして心よりご冥福をお祈りいたします。

人生レシピ、逆境を乗り越える”レジリエンス”を見た

毎週金曜日夜8時、Eテレで放映している「あしたも晴れ!人生レシピ」を時々みます。

先日はレジリエンスの特集だったので、絶対にみようと思っていました。

 

レジリエンスとは「回復力」「弾力性」という意味なのです。逆境や困難にあっても、折れずに回復できることをいい、昨今のストレス社会で注目を浴びている言葉です。

 

番組を見て、印象に残ったことが2つ。

 

1. 企業研修、あるいは、番組出演者に「レジリエンス」と聞いて、イメージしてもらったことを絵にしてもらったとき、人によって、全く違ったこと。

 

ある人は、ロシアのマトリョーシカを描いていたし、賀来千香子さんは、陽の光の中で、幸せそうな自分と、閉じこもって悲しそうな自分を描いていました。

 

私はきっと、細い竹がしなっている様子を描くと思います。あるいは、心理カウンセラーの樺沢紫苑さんがよく言っている「のれん」。私にとって、レジリエンスは、まともに受けないで柔軟に受け止めながら、でも折れない、というものだと思っていました。

人によってずいぶん違うものです。でも正解なんてないのでしょう。

 

2. 福島の原発で10年かけて作り上げた自然農園や自然食レストランを捨てなくてはならなくなり、三重でまたゼロから農園や生活を再生している夫婦の方のインタビュー。

 

だんなさんは、福島の原発から逃げるとき、「これは聖書の場面だ」と思ったそうです。神様がソドムとゴモラの町を滅ぼそうとし、そこから逃げるロトと家族。神様は、逃げるとき後ろを振り向いてはいけない、という言ったのに、教えを破り、うしろを振り向いてしまったために、塩柱にされてしまったロトの奥さんの場面。

 

だんなさんは、過去をまったく振り向かず、三重でまたゼロからはじめたのですが、奥さんのほうは、福島で作り上げたものを考え5年くらい笑顔が出なかったそうです。だんなさんのレジリエンスの強さは、信仰もあるかと思いますが、20年もの間、アジアの貧しい村々で農業支援にあたった経験に培われたものも大きいと思いました。

 

それと同時に、だんなさんがあまりにも素晴らしすぎて、以前の暮らしを思うことを共感してもらえない奥さんの気持ちも大変わかるような気がしました。

 

でもこんなにも大きな困難に直面したとき、夫婦の性格が違うのは、大きな強みなんだなとも思いました。同じように後ろばかり見ていたら、悲しみは増長されて、きっと病気になってしまうことでしょう。

 

最後にだんなさんが言っていたこと、お金やものを失っても大丈夫なんだ、そういうものがなくても、また自分でゼロからやっていけるんだという根拠のない自信みたいなものが大事(言葉は多少違うかもしれませんがこういう趣旨のこと)という言葉が沁みました。

 

自分にそういう自信をつけるのは、経験しかない。

 

この自信がレジリエンスというものなのでしょう。

困難に立ち向かう、のではなくだんなさんのように変えられない過去ではなく、未来を考える、あるいは奥さんのように、笑顔が出ないときがあって辛くてもじっとやり過ごし、でもとにかく折れない。

これもレジリエンス

 

人生レシピは、とても深い番組だと思います。賀来千香子さんの優しい謙虚で思慮深いコメントも好きです。金曜日の夜はちょっと楽しみです。

 

#まいにちしあわせになる方法・30

 レジリエンスをもっと知る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本橋高島屋、日本画家、堀文子さんの展覧会に行く

日本橋高島屋で開催され、今年の2月に亡くなった日本画堀文子さんの展覧会に行ってきました。

 

作品は思った以上に数多く出品されており、平日の昼間にも関わらずとても混んではいました。感じたのは、潔さ、子供のままの純粋さ、人におもねず、最後の作品まで、自分の魂が呼ばれたものを描いているのが、はっきりとわかりました。

 

70歳のころイタリアのアレッツオにアトリエを構えたり、82歳のときにヒマラヤの山の花を描きに行ったりと、普通の人間だったら、年齢を考えて、なかなかできないことかもしれません。

 

でも年齢とは何でしょうか?

 

もちろん、肉体は山型の衰えを見せるでしょうが、は亡くなるその時まで、見るもの、感じることが毎日新鮮であり続けることが可能なのではないでしょうか。努力なしで誰もがそうなるとは思えませんが、不可能ではないのだ、と堀さんの生き方をみて思いました。

 

100歳のときの作品がありました。

描きかけの紅梅でした。

 

亡くなるその年まで、美しいものに魂を呼ばれた方だったのだと思いました。

 

雑誌サライのインタビューにこう答えてられます。

 

「ー齢を重ねる楽しさとは?

「うーん、みなさん年齢に拘りすぎですね。84歳なのにお元気ですね、なにか秘訣は?なんて無礼だと思います(笑)。子供のときの続き。私にはそんな感じしかないですね。そして死ぬまで生きているわけですから。」

2002年9月5日号サライインタビューより

 

子供のときから続きで死ぬまで新しい毎日を生きる。

こうありたいと思いました。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

#まいにちしあわせになる方法 29 ・新しい毎日を新鮮に生きる

ランニング再開 

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以前はよく走っていて、狂っている時期があり、フルマラソンも2度ほどでたことがあるのですが、ここ数年は、すっかりランニングから遠ざかっていました。でもジムに行くのは、ちょっとめんどくさいな、というときは、いつでもどこでも、のランニングは一番いい運動だと痛感! ジムで筋トレの後、ランニングマシーンで15分ほど走ると決めているのですが、ランニングマシーンは、やっぱりあまり楽しくない=時間が経つのがとっても遅く感じます。ずっとタイマー見ている始末。

 

それに比べて、外を走ると、行ったら、戻ってこなくてはならないので、あっという間に往復で30分くらい走っています。

 

我が家の周りは丘陵地帯で、自然が残っているところがあり、自然とクロスカントリーレーニングになります。写真は、山道で、大好きな道なのですが、あまりにも人がいないので、ちょっと怖いこともあり、女性が犬の散歩しているのを見かけたときだけ、走ることにしています。

 

前は、自分に課しているところがあって、ハードに走って、苦しみの後の達成感みたいなのを求めていたけれど、今は、あくまで楽しく気持ちよく終わる、をモットーに、次、また走りたくなる気持ちと「やらないよりはまし」を目指してやっています。

 

というのは、このごろ、運動するとポジティブな考えになる、など、運動と脳の働きの勉強をしていて、運動の意味が自分にとってまったく変わってしまいました。今は、人生をハッピーに感じるための行動の一つ=運動になりました。運動するといい気分になるのは、そういう気がすると漠然と思ってたけど、脳にでてくる化学物質的に、当たり前のことだったんですね。そう思うとよけい楽しくなりました。よしよし、今でているだろうな、と思って。

 

もしできたらいつか5キロマラソンくらいに出たいものです。多分、もうフルマラソンに出ることはないでしょう。体に悪そうなので;)(自分の場合)

 

ランニングは、お金もかからず、場所もたいして選ばず、本当にいいものだなあとつくづく思うこの頃なのでした。

 

#まいにちしあわせになる方法 28・家の近くを楽しく走る

 

新緑いっぱい山登り・弘法山

 

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秦野にある弘法山というところにハイキングに行きました。

山登りは小学校5年の時行った箱根の金時山以来!

当時は、真夏で暑かったにもかかわらず、「水を飲んだら疲労するので水分は控える」というとんでもない常識だったので、水分補給させてもらえず、喉乾いた、疲れた、と山登り=辛いという思い出しか残りませんでした。

 

しかし、あれからうん十年!今年はなんでもやってみると決めているので参加してみました。

 

今回は、山登りのエキスパートの人がいたし、日本語ボランティアの人たちと、そのクラスに参加されてる外国人の方とわいわい楽しい登山だったので、辛い山登りのトラウマは、あっという間に払拭され、すっかりはまりました。

 

しかも自分が住む小田急線のこんな近くに、こんな素晴らしいハイキングコースがあったなんて。

 

弘法山に行くんだ」というと、かなりの人から「行ったことある」「なんども登ったことある」と言われました。とっても人気の場所だったんですね、山登りに興味がなかったので、まったく知らなかった。

 

エキスパートの方によると、春は桜、初夏には新緑いっぱい、秋は紅葉、真冬は、空気が澄んでいて富士山や海がくっきり見えるそうです。帰りは温泉にも入れていうことなしの初心者向け山登り。

 

エキスパートの人が、今度は秋にまた企画してくれるそうです。

楽しみです。

 

# まいにちしあわせになる方法 27 自然いっぱいのハイキングにでかける!

 

弘法山のハイキングについてくわしく書かれています↓

https://tabicoffret.com/article/76023/index.html

 

大磯3・エリザベスサンダースホーム創始者、沢田美喜記念館

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大磯の旅の続きです。

今回の旅の目的はエリザベスサンダースホームを作られた沢田美喜さんの記念館を訪れること。エリザベスサンダースホームは戦後、米兵と日本人女性の間に生まれ捨てられたり育てられなかったりした混血孤児のための児童養護施設、とだけ知っていました。

 

しかし、澤田さんが岩崎財閥の創始者岩崎弥太郎氏の孫で、ここが岩崎家の別邸であったこと、その後財閥解体で接収された別邸を、エリザベスサンダーズホームのために澤田さんが財産を投げ打って買い戻したこと(それだけでは足りなかったのですが)など全く知りませんでした。

 

大磯の駅前すぐ、緑の中にある階段をのぼりると小高い丘の上にノアの箱舟をイメージして作られらた沢田美喜記念館があります。親切な館長さんが、クリスチャンであった澤田さんが集めた隠れキリシタンのコレクションの説明をしてくれました。

 

一番印象に残ったのは、一見すると、大きめの普通の手鏡でなのですが、鏡を使って壁に光を反射させると、そこに聖母マリアやイエス様の姿が浮かび上がるというものでした。こんな凝った細工をして見つからないようにしていたのかと驚きました。

 

たくさんの人が踏んだであろう、すり減った踏み絵もあり、どんな思いでその板を踏んだのかと思うと、そこにある踏み絵から出てくるたくさんの人の思いを感じて、その日の夜、思い出して眠れませんでした。

 

2階は礼拝堂になっており、階段のステンドグラスが美しかったです。

 

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館長さんがすすめてくれた文庫本GHQと戦った女 沢田美喜」(青木冨貴子)を買って、お礼を行って記念館を出ました。さっそく帰りの電車からその本を読み始めたみつおさんは、本があまりにも面白くて夢中になりすぎて、せっかく駅前で買った大量の大磯の釜揚げしらすとオレンジを、電車を乗り換えした時、藤沢駅のベンチに置き忘れてしまったのでした。

 

しらすが諦めきれない私はかなりしつこく小田急に問い合わせたものの出てこず。

誰かの夕飯のおかずなったのかなあ。

 

澤田さんの人生は想像していた聖女的な女性像とは全く違って、記念館に行ったあと本を読むと、その人生のエネルギーのかけらをいまだに感じることができてとてもよかったです。

 

#まいにち幸せになる方法26

自分の使命を生きた女性の人生を知る

 

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沢田美喜記念館・大磯町ホームページ

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/look/meisyo/sawadamikikinenkan.html

 

沢田美喜記念館公式ホームページ

https://www.sawadamiki-kinenkan.com/

 

 

 

大磯2 ・新島襄 終焉の地

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大磯の旅の続きです。

 

大磯が新島襄が最後を迎えた場所だと知りませんでした。今は、彼が最後を迎えた宿跡には石碑と案内所が残されています。

 

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新島襄と言えば、同志社大学創立者、あるいは新島八重の夫、という印象が強いのですが、本当に命がけで自分のこころざしを果たすべく生きた人だったんですね。

 

神田生まれの新島襄は、22歳で当時、国際都市だった函館まで行き、そこから小舟に乗って、アメリカの商船に乗り、上海へ。そこで別のアメリカの船に乗り換えて、香港、マニラ、ケープタウン、そして、ボストンへ。

 

当時はもちろん日本人が海外に出国することは死罪。命をかけてまで国を出て見たいこと、知りたいことがあった。

 

米国で日本人としてはじめで学士号を取得、その後は、キリスト教の宣教師として日本に帰るため、神学校でも学び、帰国後同志社大学の全身同志社英学校を開校。

 

倒れたのはその英学校から、大学設立のために奔走している最中。

病に倒れた新島襄は、以前から大磯に行きたかったことと、友人の勧めもあり、大磯で療養することにしたそうです。この石碑の場所には、百足屋(むかでや)という旅館があり、その旅館の別館、愛松園で静養していたそうです。

 

1889年(明治22年)11月に病に倒れ、翌月12月28日大磯に到着、年が明けて、1月20日に危篤となり、新島八重東海道線でかけつけ、3日後の1月23日に46歳と11ヶ月の短い生涯を閉じたというから、つまり、大磯で最後の1ヶ月を過ごしたことになります。

過労がたたったのだろうけれど。

 

命がけで日本を出て、命がけで大学設立に奔走し、時間で計れる人生は短く終わってしまった。でも結局、今でもそこでたくさんの人が学び、残したものを考えると、時間を超えた「永遠の命」というのはあるんだなと、この石碑の前で思ったのでした。そして、自分の行きたかった海の近くで、愛する人に見守られて天に召されるなんて、幸せな最後ではないか。

 

人生は長さではないなあと太陽いっぱいの海風の中で思ったのでした。

 

# 毎日しあわせになる方法25 ・永遠の命について考えてみる