羊のまいにちしあわせになる方法100

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大磯2 ・新島襄 終焉の地

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大磯の旅の続きです。

 

大磯が新島襄が最後を迎えた場所だと知りませんでした。今は、彼が最後を迎えた宿跡には石碑と案内所が残されています。

 

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新島襄と言えば、同志社大学創立者、あるいは新島八重の夫、という印象が強いのですが、本当に命がけで自分のこころざしを果たすべく生きた人だったんですね。

 

神田生まれの新島襄は、22歳で当時、国際都市だった函館まで行き、そこから小舟に乗って、アメリカの商船に乗り、上海へ。そこで別のアメリカの船に乗り換えて、香港、マニラ、ケープタウン、そして、ボストンへ。

 

当時はもちろん日本人が海外に出国することは死罪。命をかけてまで国を出て見たいこと、知りたいことがあった。

 

米国で日本人としてはじめで学士号を取得、その後は、キリスト教の宣教師として日本に帰るため、神学校でも学び、帰国後同志社大学の全身同志社英学校を開校。

 

倒れたのはその英学校から、大学設立のために奔走している最中。

病に倒れた新島襄は、以前から大磯に行きたかったことと、友人の勧めもあり、大磯で療養することにしたそうです。この石碑の場所には、百足屋(むかでや)という旅館があり、その旅館の別館、愛松園で静養していたそうです。

 

1889年(明治22年)11月に病に倒れ、翌月12月28日大磯に到着、年が明けて、1月20日に危篤となり、新島八重東海道線でかけつけ、3日後の1月23日に46歳と11ヶ月の短い生涯を閉じたというから、つまり、大磯で最後の1ヶ月を過ごしたことになります。

過労がたたったのだろうけれど。

 

命がけで日本を出て、命がけで大学設立に奔走し、時間で計れる人生は短く終わってしまった。でも結局、今でもそこでたくさんの人が学び、残したものを考えると、時間を超えた「永遠の命」というのはあるんだなと、この石碑の前で思ったのでした。そして、自分の行きたかった海の近くで、愛する人に見守られて天に召されるなんて、幸せな最後ではないか。

 

人生は長さではないなあと太陽いっぱいの海風の中で思ったのでした。

 

# 毎日しあわせになる方法25 ・永遠の命について考えてみる